ゴキブリはかわいい

ゴキブリがたくさん入っている水槽をいきなり人の目の前に突きつけて反応を見る、という企画を見たことがある。

これはなにも嫌がらせではない。この企画の狙いは他のところにあったのだ。ふつうの人は叫んで逃げていった。しかし、一部の人は逃げるどころか興味深げに覗き込みさえしたのだ。

 

この反応の違いを生んだのは地域差だ。

沖縄の人はとびきり嫌がり、北海道の人は関心を示したのだ。沖縄には大きなゴキブリがおり、「最悪な日常」的な存在だ。一方、北海道にはゴキブリはほとんどいないとされている。だからこそ、まるでパンダを見るかのようにゴキブリに興味を示したのだ。

 

ゴキブリとは元々「ゴキカブリ」と呼ばれる生き物で、ある辞書に誤植で「ゴキブリ」と書かれたのが広まる形で名前が変わった。諸説あるが、「ゴキカブリ」とは「漆の器をかぶっているように美しい」ところに由来しているそうだ。確かに言われてみれば、そのように見える。しかし、今では嫌われ者の「G」呼ばわりされてしまっている。

 

 

価値とは、この上なく相対的なものだと思い知る。

魚焼きグリル的世界観

 

「家事ヤロウ」という番組がある。

バカリズムカズレーザーKAT-TUN中丸の独身男三人がおもしろおかしく家事を学んでいく、というものだ。基礎から衝撃の便利技まで学べて非常におもしろい。

 

ここ二回の放送では「魚焼きグリル」がテーマだった。

魚焼きグリルは使わずに引っ越す人も多いが、実はなんでもできる万能ツールだ、というのが番組の結論だ。実際に焼き野菜(フライパンよりビタミンが増える)やローストビーフ(たった20分でつくれる)、さらにはエビフライ(大さじ2杯の油だけでつくれ、無駄がない)などの作り方が紹介された。使わない理由がないのではないか、と思わされるような内容だった。

 

しかし、ここで大きな謎にぶち当たる。

それほど万能なツールでありながら、なぜ使われていないのだろうか。バカリズムはずばり、「ネーミングで損をしてる」と看破した。確かに、「魚焼きグリル」と言われれば「魚を焼くためだけのもの」と解釈されて当然だ。万能感はみじんもない。彼は逆に、フライパンのことを「ビタミン減らし」や「二度手間鉄板」と言いかえて魚焼きグリルのすごさを強調した。これも同じネーミングの論理で、逆にフライパンの価値を貶めてみせたのだ。

 

 

ネーミングはしばしば本質と乖離する。

しかし、社会では本質よりもネーミングが優先される。例えば、学歴もその対象だ。東京工業大学の学生は、知識のない人から「工業高校の延長的なもの」と誤解されバカにされることも珍しくないという。実態は東大に次ぐ理系の名門であるにも関わらず、だ。私が思うに、国公立大学は割を食いやすい。筑波大学より早稲田大学のほうが優秀そうに見えるし、九州大学より明治のほうが上に思える。これらの印象は単に知名度で、いや、もしかしたら箱根を走ってるかどうかで決まっている。実に馬鹿げた話ではあるが、大学名というのはそういうものだ。本質的なレベルよりもネームバリューが肝だ。

 

「魚焼きグリル」という不名誉な名前をつけられただけで価値は地に落ちた。

ネーミングこそがものをいう世界だ。本質ばかりを追求し、ネーミングをおざなりにする人間が成功することはない。

専業主婦はなぜ無価値なのか

 

「誰のおかげで食えてると思ってるんだっ!」

 

 

専業主婦の立場は弱い。

金の話を持ち出されると蛇に睨まれた蛙同然になってしまう。しかし、これはなぜなのか。家事や育児は仕事と比べて重要度が低いのだろうか。もしそうなら、それはなぜなのだろうか。

 

まず第一の問いについてだが、これについては以下のような有名な反論がある。

すなわち、「主婦の労働は年収1000万相当」というものだ。しかし、この主張は極めて非力である。なぜなら、「1000万」という数字の根拠が極めて非現実的だからだ。ここでは、料理は料理人、掃除は清掃のプロが行うものだという仮定がされている。よって、「主婦の労働は年収1000万相当(※すべての家事をプロレベルでこなした場合)」という注釈が水面下に含まれている。

 

上記の通り、「1000万」は疑わしい。

しかし、代替的手法によって換算することは可能だろう。例えば、「すべての家事をベビーシッター等にアウトソーシングした場合」とすれば、「プロレベルではないが、仕事として行われた」際にかかるコストを求めることは可能だ。これによって「1000万」には到底届かないまでも、数百万相当の価値があることは示せるだろう。つまり、経済学的にみれば家事も仕事も優劣はつけがたい。

 

しかし、その上で差別があるのが現状だ。

では、なぜ差別がうまれてしまったのか。私が思うに、「目に見えないものは評価されづらい」傾向ゆえだ。日本人は芸術やアイディアに金を払わないと言われるが、まさにそういった話だ。

 

家事の経済学的価値は目に見えない。

「お金」として換算されていないからだ。お金で表現されていないものは無価値なものとして認識される。その結果、家事は仕事よりも重要度が低いとみなされるのだろう。

 

 

貨幣の三機能の一つに「価値の尺度」というものがある。

確かに、お金を基準にしてモノの価値を比較するのは極めて有用な考え方だ。しかし、それは決して万能ではない。

 

そもそもお金で測るのが間違いなのか、はたまた未だにお金で表現されていないのが間違いなのか。

現代の評価経済の流れを見ると後者が正解のようにみえるが、定かではない。今はっきり言えるのは、「お金ですべての価値を表現できていない」現状を認識すべき、ということくらいだろう。

「教養のない主婦ブロガー」が最強なわけ

 

インフルエンサーと呼ばれる人たちを見てて思うのは、「頭が悪いなぁ」ということ。もっといえば、「性格悪いなぁ」とも思う。こう言うと最悪な感じがするけど、残念ながらそういう人ばかりが成功してる、ってのが現状だ。

 

なぜこんな悲劇が起きてるのか。

それはインターネットが個人をエンパワーメントしたことによるパラダイムシフトのせいだ。昔は「バカ」の声は「エリート」によって圧殺されていた。これは頭がいい人間が主導する社会では当然のことと言える。しかし、ブログやSNSが登場したことで「バカ」の声が世間に溢れ出てくるようになった。いわゆる「個人のメディア化」だ。

 

さて、ここで困ったのは「エリート」たち。

彼らは社会的地位は高いものの、数の力がない。そう、彼らが「エリート」と呼ばれるゆえんは「バカ」が多数派だからに他ならない。単純な多数決では「バカ」に勝てないのだ。

 

今の世の中、「頭の良さ」より「フォロワー」の多さが重要だ。

そして、「類は友を呼ぶ」というように、人は同じくらいのレベルで群れやすい。つまり、「バカ」は巨大なマーケットであり、ブルーオーシャンと化したのだ。

「ポップなバカ」「キャッチーなバカ」は数多くの「バカ」なフォロワーを獲得し、勢力が巨大化していく。さらに、「バカ」が「エリート」を倒す、という構図にカタルシスを感じる「バカ」が集まってきて大変な盛り上がりを見せる。実は、この本がまさにそうだった。

 

 

k-neet.hatenablog.com

 

 

「大学の総長にペンキをぶちまけて捕まった」過去を楽しそうに語るイカれぶりを見せながらも、彼には多くのフォロワーがいる(無論、フォロワーもイカれてるはずだ)。それによって彼は独自の経済圏を築き、生き延びている。

 

フォロワーの質はここでは問題にならない。

バカだろうと、イカれていようと、それは「1」と数えられる。あくまで量が問題となるこの局面において、最重要なのは「凡庸さ」だ。ありふれた人間のほうが同質なフォロワーを獲得しやすいのは言うまでもないだろう。このような悲劇的パラダイムは一過性のものだと思うが、今この瞬間にはどうしようもなく現実だ。

 

 

 

こまったなぁ。。

「なぜ人は騙されるのか」を読んだら、人間の認知の脆さを痛感した。

今まで読んだ心理学系の本の中で一番面白かった。

 

 

 

私たちは常に多くの情報に囲まれている。

その情報を処理するため、「ヒューリスティック処理」と「システマティック処理」の2つを使い分けている。ここで問題となるのがヒューリスティック処理で、これは「中身を吟味せず表面的な手がかりで説得を受け入れるかどうかを決める」というゆるーいものだ。「騙される」というのはこの処理の結果として起きる。そこで、ヒューリスティック処理とは具体的にはどういったものなのか、それを知ることで騙されないようになろうというのが本書の主眼だ。

 

 

 

本書に出てくる重要な単語を以下に挙げる。

 

・プライミング

・係留点

・確証バイアス

・片面呈示と両面提示

・防護動機理論

・単純接触効果

・コミュニケーションの過剰回避

・コミュニケーションの不足回避

心理的リアクタンス

・段階的要請法

・譲歩的要請法

・特典付加要請法

・特典除去要請法

・カフェウォール錯視

サブリミナル効果

正常性バイアス

・真実バイアス

・学習性無力感

 

とっつきにくい専門的用語が多く並び、難しそうに見えるかもしれない。しかし、本書は常にわかりやすい具体例とともに説明されるのですんなり理解できる。また、「すなわち第一章で述べた確証バイアスが介在している(九頁)」のように、重要な概念を復習しながら進めるのもありがたい。

 

 

 

さて、ヒューリスティック処理を利用した事例を見てみよう。

 

「レクチンを含んだボディーローション!」

というコピーを見たとき、どのような印象を抱くだろうか。実験の結果、「レクチンを含んだ」の文言を入れたほうが印象が良いことがわかった。「レクチンは体に良い成分だ」という解釈が自然になされたのだろう。

 

「レクチンを含まないボディーローション!」

はどうだろうか。実は、これも印象が良くなる。なぜならここでは「体に悪いレクチンが含まれていない」と解釈されるからだ。

 

ちなみにレクチンは架空の成分であり、このコピーにはなんの意味もない。それにも関わらず、勝手な解釈をして好印象を抱いてしまう。ヒューリスティック処理の恐ろしさである。

 

 

 

他にはこんな面白い話がある。クイズ形式にしてみよう。

 

Q.あなたは今すぐ、コピーをとらなければならない状況にある。しかし、困ったことにコピー機には行列ができている。このとき、先頭の人になんと言ったら順番を譲ってもらえるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

A.「コピーをとりたいので、順番を変わってくださいませんか」と言う。

 

 

 

バカげてると思うだろうか。

確かに、この日本語はおかしい。コピーをとりたいのは誰しも同じであり、当たり前だ。順番を変わってもらう理由には到底ならない。しかし意外にも、実験では高い成功率をあげている。

なぜか。それは「理由→要請」という形をとっているのが明確にわかるからである。内容ではなく、このフォーマットに反応して譲ってしまうのだ。信じられないことだが、人間の認知の多くはこのようなヒューリスティック処理に依存しているというのだからおそろしい。